名を失うとき:キャリアと結婚の狭間で揺れる心
平成27年12月16日、最高裁判所は、夫婦が結婚する際に同じ姓を名乗ることを義務付ける民法第750条が憲法に違反しないとする判決を下した。この訴訟では、原告が「夫婦が同じ姓を名乗ることを強制される自由」が侵害されているとして、憲法13条(個人の尊重)、14条(法の下の平等)、および24条(個人の尊厳と両性の本質的平等)に違反すると主張したが、最高裁は「家族の一体性や社会的な秩序に合理性があり、憲法に違反しない」と結論づけた。この判決は、家族の呼称としての「姓」の意義と、個人の尊厳をめぐる重要な判例となっている。
[登場人物]
- 宮田 麻美(みやた あさみ)
30歳半ばのキャリアウーマン。コンサルティング会社に勤めるエリート社員であり、これまで数々のプロジェクトを成功に導いてきた。仕事に情熱を注ぎ、「宮田麻美」としての名前に強い誇りを持っている。結婚を控え、姓の変更に対する不安と葛藤を抱えている。 - 佐々木 龍之介(ささき りゅうのすけ)
商社勤務のサラリーマン。温厚で誠実な性格で、麻美を心から愛し、彼女のキャリアや名前に対するこだわりを理解し、柔軟にサポートしようとしている。結婚に伴う麻美の不安に真摯に向き合い、彼女を支える。 - 田村 直子(たむら なおこ)
麻美の同僚で親友。明るくて頼りになる存在で、麻美の悩みを理解し、時には厳しくも温かいアドバイスを送る。麻美と同じ会社で働き、プライベートでも彼女を支える重要な存在。 - 藤井 慎一(ふじい しんいち)
麻美の上司であり、経験豊富で部下の能力を適切に評価する人物。仕事の結果を重視し、麻美が結婚後に名前が変わることについても、彼女の実力を信じ、前向きに励ます。
プロローグ:選択の瞬間
東京の夜景が一望できる高層ビルのオフィスで、宮田麻美は、手に取った名刺をじっと見つめていた。
「宮田麻美」と記されたその名刺は、彼女がこれまでのキャリアで成し遂げたすべての象徴だった。
無数の困難を乗り越え、成功を手にしてきた。
その名前が、彼女にとって自信と誇りの源だった。
大学を卒業してから今に至るまで、麻美は仕事一筋で走り続けてきた。
男性が多いコンサルティング業界で、女性であることをハンデだとは感じさせないように、必死で努力を重ねてきた。
早朝から深夜まで続く会議、クライアントとの交渉、そして不眠不休でのプロジェクト管理。
すべては、「宮田麻美」という名前の価値を高めるためだった。彼女はその名前で認められ、その名前で信頼されてきた。
しかし、来月には、彼女は「宮田麻美」ではなくなるかもしれない。
龍之介との結婚は麻美にとって喜ばしいことであり、彼を心から愛していた。
だが、その幸せな未来を前にして、彼女の心には一抹の不安があった。
「どうして結婚しただけで名前を変えなければならないの?」麻美の心には疑問と不安が渦巻いていた。
第一幕:結婚の喜びと戸惑い
「結婚なんて、昔は考えられなかったわ。」
麻美はオフィスの一角で、親友の直子に話しかけた。
直子は微笑みながらコーヒーを啜り、「あんたがそう言うのも分かるけど、今は違うでしょ?
龍之介さんと一緒で、幸せそうじゃない。いいんじゃない?」と軽く答えた。
麻美はコーヒーを口にしながら、窓の外に広がる街並みを見つめた。
「そうね、龍之介は本当に優しい人だし、彼との未来を想像するとワクワクするの。でも…」
「でも、何?」直子は顔を近づけ、麻美の言葉を待った。
「私の名前…『宮田麻美』としてここまでやってきたのに、結婚したら『佐々木麻美』になるのよね。何かが失われてしまうような気がして…」
麻美はデスクに置かれた名刺を見つめながら続けた。
「なぜ、女性が名前を変えることがこんなに当たり前になってるんだろう?私が『宮田』として積み上げてきたものが、なくなっちゃうような気がして。」
「確かにね、法律で女性が名前を変えなきゃいけないなんて決まってるわけじゃないけど、なんだかんだで、名前を変えるのは圧倒的に女性が多いもんね。」直子は一瞬黙り込んだが、「名前が変わったって、あんたがやってきたことが消えるわけじゃないわ。でも、その気持ち、分かるわ。『宮田』の名前にはあんたの全部が詰まってるものね。」
と同意するように頷いた。
その日の夜、麻美は龍之介とディナーを楽しんでいた。
彼は優しく微笑みかけながら、「麻美、今日は仕事どうだった?」といつものように尋ねた。麻美はその優しさに救われるような気持ちになりながらも、心の中で言葉にならない重みを感じていた。
「龍之介、私たちが結婚したら、私は『佐々木麻美』になるのよね?」麻美は思い切って切り出した。
龍之介は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに落ち着いた声で答えた。
「そうだね。でも、仕事では今まで通り『宮田麻美』として通称を使えばいいんじゃないかな?それに、結婚することで僕たちは一つの家族になるんだから、それはそれでいいことだと思うよ。」
麻美は彼の言葉に頷きつつも、内心では消えない違和感を抱えていた。
「でも、法的には私は『佐々木麻美』になる。それが私にとって何を意味するのか、正直まだ整理がついていないの。」
彼女は龍之介を愛していたし、結婚そのものには期待と喜びを感じていた。
しかし、名前が変わることで失われるものがあるのではないかという不安が、どうしても心を揺さぶっていた。
第二幕:名を守る闘い
麻美の不安は日を追うごとに大きくなっていった。
彼女はオフィスで忙しく仕事をこなしながらも、心の中では「名前」のことが頭から離れなかった。
特に、部下やクライアントから「宮田さん」と呼ばれるたびに、
「この名前が変わったらどうなるのだろう?」という考えがよぎるのだった。
ある日、麻美は仕事帰りに直子とワインバーに寄った。
仕事の話で一息ついた後、麻美はぽつりと「名前を変えることがこんなに辛いなんて思わなかったわ」と言った。
直子は麻美の表情を見て、少し心配そうに尋ねた。
「やっぱりまだ気になってるんだね。『宮田麻美』って、あんたにとって本当に大切な名前なんだね。」
麻美は静かに頷き、「そうなの。この名前で私は今の地位を築いてきた。女性だからって軽く見られることもあったけど、そのたびに『宮田麻美』として実績を積み重ねることで、自分の価値を証明してきた気がするの。」
直子は麻美を励ますように言った。
「旧姓を使い続けるって手もあるんじゃない?最近はそういう人も増えてるし、通称使用も広まってきてるし、法的には『佐々木麻美』でも、仕事では『宮田麻美』でいられるよ。」
麻美は小さく頷きながらも、
「うん。龍之介にも同じことを言われた。でも、それだけで解決するのかな?結婚することで、何か大切なものが変わってしまうんじゃないかって…怖いの。」
と不安を打ち明けた。
直子は麻美の気持ちを察し、「結婚って、名前だけじゃなくて、いろんな意味で変化を伴うものだと思う。
でも、あんたがあんたでいることには変わりないわよ」と力強く言った。
翌日、麻美は上司の藤井に相談することにした。
藤井は「宮田麻美」という名前のもとで彼女を高く評価しており、その仕事ぶりをよく知っているだけに、結婚後の名前の変更について興味を持っていた。
「藤井さん、実は結婚を機に名前が変わることが心配で…『宮田麻美』としての信頼を築いてきたのに、『佐々木麻美』として同じようにやれるかどうか、不安なんです」と麻美は率直に打ち明けた。
藤井は眉をひそめ、
「確かに名前が変わることで一時的な混乱はあるかもしれないが、君の実力は変わらない。名前なんて飾りだ。これからも『佐々木麻美』として実績を重ねていけば、同じように評価されるはずだよ」と励ました。
麻美は藤井の言葉を心に刻んだが、彼の言う「飾り」という言葉には引っかかるものがあった。
彼女にとって「宮田麻美」という名前は、単なる飾りではなく、自分の存在そのものを示す重要な要素だったからだ。
第三幕:法の重み
婚姻届を提出する日が近づくにつれ、麻美の心はますます揺れていった。
彼女は龍之介と共に役所に向かい、婚姻届にサインをすることになっていたが、その瞬間が迫るにつれ、不安と緊張が高まっていった。
役所の窓口で、麻美は緊張した面持ちで「佐々木麻美」として署名をすることになった。
彼女の心は大きく揺れ動いていた。「これで私は、本当に『佐々木麻美』になるのだろうか?」と自問した。
「宮田麻美」という名前で築いてきたキャリアが、まるで手からこぼれ落ちていくような気がした。
彼女は自分自身に問いかけた。
「名前が変わることで、私は何を失うのか?何を守るべきなのか?」
「婚姻後の氏を決めてください」と無表情の職員が告げた。
その冷淡な一言が、麻美に現実を突きつけた。
「名前が変わるだけでなく、私の人生も変わってしまうのだろうか?」と、彼女は思わず涙をこらえた。
しかし、ここで龍之介はそっと彼女の手を握り、
「僕は君を愛している。私たちはこれからも一緒に歩んでいける」と優しく語りかけた。
その言葉に少し救われた麻美だったが、それでも心の中には大きな葛藤が残っていた。
「法的には『佐々木麻美』でも、私の心の中では『宮田麻美』として生き続けることができるのだろうか?」
と自問しながら、彼女は深呼吸をし、静かに署名した。
第四幕:法廷での戦い
婚姻届を提出した後も、麻美の心には名前が変わったことに対する違和感が残り続けた。
仕事ではまだ「宮田麻美」として通称を使い続けていたが、法的には「佐々木麻美」であることが彼女を縛り続けた。
ある日、麻美は心の中で自問自答を繰り返した。
「本当にこれで良かったのだろうか?」
彼女は、名前が変わることが自分自身の存在や価値を変えてしまうような恐怖に苛まれ、次第にその思いが強まっていった。
「私が守りたいのは、自分自身の尊厳と誇り…」その思いが、彼女を突き動かした。
最終的に、麻美は自分の信念を貫くために裁判を起こす決意を固めた。
彼女は弁護士を通じて、夫婦同氏制度が憲法13条、24条に違反していると主張し、法廷へと立ち向かった。
憲法13条は、すべての国民が個人として尊重され、その幸福を追求する権利を持つことを保障しています。これは、一人ひとりが自分らしく生きることを大切にするという意味を持ちます。
一方、憲法24条は、結婚や家族生活が個人の尊厳と男女の本質的平等に基づいて営まれるべきだと定めています。つまり、結婚においても男女が平等に尊重され、どちらも対等な立場で選択や決定を行えることが求められているのです。
現在の法律では、夫婦は結婚時にどちらかの姓を選ぶことができます。しかし、まだまだ現実には多くの夫婦が慣習や社会的な期待から男性の姓を選ぶ傾向にあるようです。この状況は、女性が自分の姓を保ちたいと望んでも、周囲の目やプレッシャーによって難しく感じてしまうことがあるでしょう。麻美の挑戦は、こうした慣習に問いかけ、自分らしさと平等を求める強い意志の表れでした。
法廷では、彼女の訴えが「個人の尊厳」と「家族の一体性」の間の対立を浮き彫りにした。
裁判官は「夫婦同氏制度は、家族の一体性と社会的な秩序を守るために合理的であり、憲法に違反しない」と結論づけたが、彼女の訴えを軽視することなく、通称使用が広まっている現状を考慮し、氏の選択に対する柔軟な対応が今後さらに必要になる可能性があると示唆した。
「しかし、夫婦同氏制は、婚姻前の氏を通称として使用することまで許さないというものではなく、近時、婚姻前の氏を通称として使用することが社会的に広まっているところ、上記の不利益は、このような氏の通称使用が広まることにより一定程度は緩和され得るものである」裁判官のこの言葉が、麻美の心に一筋の光を投げかけた。
彼女は敗訴したが、この戦いを通じて、自分の信念とアイデンティティを守ることの大切さを再確認した。
麻美はこの経験を糧に、これからも自分らしく生きることを決意した。
エピローグ:新たな一歩
判決が確定し、麻美は日常へと戻った。
彼女は「佐々木麻美」としての新しい人生を受け入れつつも、仕事では「宮田麻美」としてのアイデンティティを守り続けることを決めた。通称使用が社会的に広まっていることが、彼女にとっての救いだった。
だが、その救いに甘んじるだけでは終わらないという決意が、心の奥底から沸き上がってきた。
ある日、麻美はふとした瞬間に、自分の手元にある名刺を見つめた。そこには「宮田麻美」の名前が刻まれている。彼女はその名刺を握りしめ、「私の名前は、私自身が作っていくんだ」と心に誓った。
社会は変わる。
法律も、慣習も、やがては変化する日が来るだろう
。麻美は、自分の小さな戦いがその一助となることを信じていた。
彼女の人生は「佐々木麻美」として続いていくが、「宮田麻美」としての自分もまた、心の中で生き続けている。
これからも、多くの女性たちが自分の名前と共に歩んでいける未来を築くために、麻美は進み続ける。
彼女の歩みは、未来の女性たちへの道しるべとなるだろう。麻美は静かに笑みを浮かべ、「まだ、これからだわ」とつぶやき、前を向いて歩き出した。
現代における適用の想定
現代においても、結婚後の姓の問題は、多くの人々、とりわけキャリアを築いてきた女性にとって大きな課題となっているようです。たとえば、結婚後も旧姓を通称として使用するケースが増えており、特にビジネスの場では旧姓の使用が広く認められてきていると感じる方もいるでしょう。最高裁判決が通称使用の広がりを肯定的に捉えたことが、こうした社会の動きに影響を与えているかもしれません。
また、SNSやデジタル社会が進展する中で、個人の名前がオンライン上でのアイデンティティを形成する重要な要素となりつつあるため、姓の変更がもたらす影響は、かつてよりも大きくなっているように思えます。このような背景から、夫婦同氏制度がもたらす個人の自由や平等に関する議論が、今後さらに注目される可能性もあるでしょう。法改正や社会の意識変化が進めば、より柔軟な選択肢が求められる時代が訪れるかもしれません。
ただ、この判例が現在の状況にどのように影響しているかについては、一概には言えないものの、結婚後の姓の問題が依然として多くの人々の選択に影響を与え続けていることは確かでしょう。
参考文献